オクトーバーフェスト!
菊がルートに招かれ、彼の国で最大のビール祭に参加した日は晴天だった。
「なんとまあ、広い。地元ビール会社の出店テントが、体育館より大きいってアリなんですか?
奥には遊園地まであるし。これが本当に、祭期間しか存在しない場所なだなんて」
だから世界最大と呼ばれているのだが。しかも、真昼間なのに会場狭しとあふれる人の群。
あの大人数がこれからビールを飲むのかと思うと、菊はその事実だけで酔っ払いそうだった。
「夜のほうが賑やかなんだが、あれはむしろ騒音だからな」
これで、まだ本番ではないのだから恐れ入る。
大丈夫、だと思います多分。などと呟く菊を見て、ルートの方が若干不安そうだ。
「まずは、祭の雰囲気を味わってくれ」
「そうですね。開催日にはまだ余裕がありますし」
楽しかったらまた来ればいいのだ。そう思いつつ菊は話題を変える。
「ところで、フェリは一緒じゃなかったんですか?」
問われて、ルートは近くのチケット売り場を指差す。そこには、色鮮やかな民族衣装の若い女性に取り囲まれた、くせ毛つき茶髪の青年がいた。
赤いスカートや濃緑のワンピース。その上に白いエプロンを身につけた娘たちは、まるでフェリの国旗を身にまとっているようだ。彼らの友人はその中心で身振り手振りをくわえて話に熱中している用に見受けられる。
(声をかけないほうがいいかな)と、菊は思う。
ところがルートは逆に大声で、「来ないなら先に行くぞ!」とフェリを呼びつけてしまった。
止める暇もなかった。しかもフェリは、飼い主に呼ばれた子犬のような勢いで彼らのところに駆け戻ってきた。
「置いていかないでよ〜。もう、ちょっと目を離すとすぐ勝手に行動するんだから」
ぽこぽこと怒りつつ、フェリは先頭に立ってテントに向かう。
「勝手はどっちだ」と呟くルートに、「そっとしておいてあげた方がよかったのでは?」と菊が問う。
さっきのナンパは、うまくいきそうな雰囲気だった。あのまま彼がフェイドアウトしたところで、菊は気にしないのに。
むしろこっそりと、この後の成功を祈るくらいだ。
「いや。前に俺もそう思って、気を利かして消えたことがあったんだが」
ルートが重くため息をつく。
「あいつ、なぜか女の子放り出して俺の方を探したんだよ。信じられるか?」
「相変わらず、意外性の塊のような方ですね」
街中で「ルッツルッツ」と名前を連呼されるわ、女の子に睨まれるわ、あげく周囲からはへんなモノを見る目で見られるわ。まさにトラウマになりそうな体験だったらしい。
「あんな恥ずかしい思いは二度とごめんだ」と、ルートは最後に呟いた。
判らないでもないが、男同士で手を繋いで歩く方がましなのかと、菊はこっそり首を捻る。まあ、羞恥心のありようは人それぞれだ。
折りよく団体客の交代があった隙に、三人は席を確保することができた。
席がないとビールを売ってもらえない。チケットはあらかじめ購入してあったので、程なくビールとザワークラウト添えチキンが三人前届いた。
ちなみにチキンは一人一羽だ。一リットルビールとセットでは、年寄りの胃にはきつい。と、菊はこっそりため息をつく。
「Prosit!」
乾杯の音頭と共に、あっちでもこっちでもジョッキをぶつける音がごつごつと響く。
鳴り渡る音楽と、曲の合間に必ず起こる乾杯。その雰囲気に飲み込まれて、三人のジョッキも順調に空になる。
「あの娘さんたち、よかったんですか」
重いジョッキが軽くなると心も軽くなるのか、菊はさっきの話を持ち出した。
「ん〜。ほら、世界中に女の子はいっぱいいるわけでしょ? いつでも声をかけてないと、皆と知り合いになれないし」
「なぜそこまでしなきゃならんのか、理解できん」
ぼそっと呟くルートは、既にジョッキ三杯目に手をかけていた。
「女の子に声をかけるのは男の義務だって、じいちゃんが」
「でも。それでしたら本当に、彼女たちと行くべきだったのでは?」
声をかけるまでが義務なのかな? とちょっと疑問に思うが、そこは黙して話を聞いている。
「そりゃ女の子はね〜世界中に星の数ほどいるけど」
けろっとした表情で、フェリは言葉の爆弾を投下した。
「でもさ、ルッツは世界に一人なんだよね」
げふっ。菊の隣で妙な音がした。
「どーしたのルッツ」
「な、なんでもないっ! いいから俺を見るなっ」
唸るように言うと、二人に背を向けてルートはジョッキを一気に飲み干した。
唖然とする菊に、フェリは笑顔で話を続けている。
「あ、もちろん菊も同じだよ。
それでね。女の子にはいくら溺れてもいいけど、友人はなにより大事にしろって。じいちゃんがよく言ってたんだぁ」
「豪快なお爺様ですね。ところで……」
菊はそっとルートを指差す。
「今の情報を速やかに伝えないと、ビールで溺死しますよ、彼」
「まっさかぁ。ルッツに限ってそんなわけ……。って。
え? 赤っ! ルッツ顔赤っ! ちょ、ちょっとどうしたの何があったのさ〜」
ビールで水死体を造りそうになった本人に、自覚が無いところがとことん救われない。
二人の会話を聞きながして菊がため息をつくと、誰かが声をかけてきた。
「やあ、日本の人。遠路はるばるようこそ」
いつの間にかルートと反対隣に、民族衣装をまとった男が腰かけていた。
開いた席に次の客が滑り込むシステムなので、誰が座っても不思議は無いのだが。男は既にジョッキを手にして、悠然とビールを飲んでいる。
菊はなんとなく違和感を感じたが、男の友好的な態度に嘘偽りはなさそうだとも思う。
「一度君に会いたかったんだ。光栄だから、乾杯してもらって良いかな」
褐色の髪と同色の顎ひげ。頭に載せたチロリアンハットが良く似合う。彼の態度は、まるで旧友と再会したような親和性にあふれている。
これも礼儀かな、と思った菊はジョッキを掲げて頷いてみせた。
「よし! お〜い皆! 我らの戦友に乾杯だ!」
男は立ち上がると、同じテーブルにいた客たちに声をかけた。
一同は改めて菊に気付いたのか、男と同じような表情でジョッキを揃えた。
音頭を取ろうとした男は、菊に「君の国でPrositはなんて言うの?」と聞いてきた。
「『KAN-PAI』です」
それを聞くと男はさらに楽しそうに笑う。
「皆の衆、『KAN-PAI』だ。いくぞ、ein,zwei,KAN-PAI!」
激しくぶつかり合うジョッキ。勢い余って飛び散るビール。その場を取り囲むのは満面の笑顔。
「Willkommen in Oktoberfest!」
ようこそと手をたたき、「日本人かい?」などと彼に問う人々のなんと楽しそうなことか。
開けっぴろげな好意がぶつかってくるのが、ダイレクトに感じられる。
「……」
何を言えばいいのかわからず、菊はつい無言になってしまう。
「びっくりした? ちょーっと品が無かったかな」
男に問われ、菊ははっきりと首を横にった。
「とんでもない。嬉しいです。歓迎ありがとうございます」
頬を染めて訥々と告げる菊を見下ろし、男もまた微笑む。
「いやいや。オレも嬉しいよ、本当に」
そう言うと男は、自分のチロリアンハットを菊にポンとかぶせた。
重いフェルト製の帽子が、菊の視界をさえぎる。
「じゃあね。縁があったら、また」
その声に答えようと顔を上げた時には、男はもう立ち去るところだった。
「おや? 今のは……」
呆然としていた菊に、今度はルートが声をかけた。遠ざかる男は振り返りもせず、ただ軽く手を挙げて別れを告げる。
「お知り合いですか?」
菊がたずねると、ルートは肩をすくめた。
「ああ。会えるとは思わなかったが、祭のときは山から降りてくるんだな」
「もしかしたら、ビールのかみ……いえ精霊、とか?」
菊が問うと、ルートとフェリがそろって爆笑した。
「あ〜いいなそれ。彼が聞いたら喜びそう」
「まったくだ。シャイなマックスが自分から声をかけるなんて意外だよ。 そんなに菊に興味があったのか」
マックス? どこかで聞いたような名前だと菊が思っていると、二人がにやりと笑った。
「なんなら紹介するぞ。俺の兄貴分、バイエルンだ」
「え”」
言われてみれば『人』じゃなかった。だからこそ『ビールの神様』なんていう発想が出てきたのだろうが。遠のく意識下で菊はぼんやり考えていた。
その後。驚愕プラス雑踏酔いした菊のために、三人は早々に引き上げることとなった。
酒には強い菊だが、質量共に只事ない「酔っ払いの群れ」には、圧倒されてしまったようだ。
バイエルンさんと菊が再会するのは、また後日。
終
PS. 「え? チロルハットってこんなに高価なんですか?」
「気にせず受け取ってやってくれ。多分、菊のために準備したんだろうからな」
「気にしますよ。ああ、私も何か贈らなきゃ」
「……お前って奴は……」
※ オクトーバーフェストには、都合三回行きました。
そのたびあの賑やかさに酔い、楽しい時間を過ごせました。
ドイツの伝統ではありえないのですが、ちょっと妄想。
「どこかにビールの神様が混ざっていて、楽しく飲んでるに違いない」
そんなことを考えてしまう雰囲気がありました。
今回、その役をバイエルンさんにシフトしてみました。
ついでに命名、マクシミリアン(マックス)です。
ルートヴィヒとならぶ、王様の名前を拝借しました。
Write:2009/06/24 (Wed) 17:25
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