白いリボン
ルートがギリシャ戦線から一時帰国したのは、1941年秋だった。 彼の国への出兵は、はっきり言ってイタリアの尻拭いという感が否めない。ルートと共に出国してきたフェリが、今も一緒に居るという点で、戦局の不憫さが想像できるというものだ。 「くだらない事で俺を呼び出すな!」 「ヴェ〜。ごめんよルッツ。でも、お前が来てくれて助かったよ」 軍務局の廊下を飛ぶような勢いで歩むルートと、必死でついてゆくフェリ。必然的に、両者の会話は大声になる。 「危ない事はするなと何度も言っただろう! その度に呼ばれる身にも……」 フェリとやり取りしながら自室の扉を開けたルートが立ち止まる。後に続くフェリが「どうしたの?」と聞くが、彼は室内を凝視したまま動かない。 「お変わりないようで、なによりです」 その声は、はっきりとフェリの耳に届いた。それは、今ここはいないはずの人の声に聞こえて。 「お前、どうしてここに」 呻くように声を絞り出すルート。(やっぱり、間違いないよ!)とフェリの心が踊る。 入り口をふさいでいるルートの身体を押しのけ、扉の隙間に無理やり身をねじ込んで、フェリは室内に飛び込んだ。 「菊! うわぁ、本当に?! 俺、しばらく会えないと思っていたよっ」 「こちらへ向かう便があったものですから」 白い軍服に身を包み、背筋を伸ばして座す小柄な人物。 彼らの同盟者、本田菊だった。
菊は、ほとんど潜入同様にドイツにたどり着いた外交官に同行して訪欧した。 外交官の身柄は協定で保障されているとはいえ、南方路線を回り、船や鉄道を駆使しての旅は、「一言で表せないほど大変」だったと菊は言う。 しかも、菊がこの場に滞在できるのは、わずか半日という。この後すぐに、前任の外交官と帰国しなければならないそうだ。 言われてふたりは顔を見合わせる。では、一日でも帰国が遅れていたら、彼とはすれ違いになっていたということか。 運が良かった。と、ルートが言った。 神様にお礼しなくちゃ。と、フェリは笑った。 全くです。と、菊も頷いた。 「幸い、仕事は問題なく終わりました。 これは、私にも思いがけない僥倖で……」 言葉を押さえるように菊は口をつぐみ、自分の胸に手を添えた。 彼も、会えるとは思っていなかったらしい。 菊の表現はつつましいなぁ。そう思ったフェリは、彼の顔を覗き込むと、笑顔全開で告げた。 「俺さぁ、すっごく嬉しい」 率直極まりない言葉を受けた菊は、一瞬視線をそらした。だが、軽く頭を振って彼なりに気を引き締めたらしい。 静かな表情で「私もです」と、はっきり口にした。 「聞いたルッツ?! 菊も嬉しいって!」 俺もだよ〜。と叫びながらハグしようとしたフェリは、菊に突っぱねられた。 「我が国にはそういう習慣はないんです、フェリシアーノさん」 「え〜。じゃ、こういう時はどうすればいいのさ」 「言葉で伝えれば、十分じゃないですか」 「つまり、今言ってくれるんだよね?」 「…………」 菊に、救いを求める目つきで見つめられたルートは、苦笑を浮かべる。 「墓穴だな」 言われた菊の眉が下がる。めったに表情を変えない男の情けなさそうな顔を見て、ルートは久しぶりに大笑いした。 今がどういう状況なのかを忘れそうになるほどのどかな時間は、あっけなく過ぎる。 ドアがノックされ、「少佐、ちょっとよろしいですか」と声がかかった。現実に呼び戻されたルートは、「すぐ戻る」と言い置いて部屋を出る。
部下に呼ばれて退室したルートが、ついでにコーヒーを持って戻ったのは、30分後だった。 「何があったんだ?」 室内の状況は、彼の想像を超えていた。 フェリは菊の軍服を手にとって調べているし、菊はフェリの軍服を被ってソファで横になっている。 たった30分で、何故こんなことになったのか。ルートの問いにフェリが答えて曰く。 「菊に『会えて嬉しい』って言ってもらっただけだよ。すごーく真剣で心がこもってたから、俺、なんだかドキドキしちゃったぁ」 精神力を極限までつぎ込んで、菊はその言葉を口にしてくれた、のだが。 「申し訳ありません。慣れないことは、するものじゃないですね」 「まさか……倒れた? そこまで心理負担になるか普通?!」 「違います、ただちょっと目の前が赤くなっただけで!」 それを、頭に血が上って倒れた。と言うんじゃないのか。 ルートはフェリの頭をぽんぽん叩くと、ドスの利いた声で言った。 「誰にでも得手不得手があるものだ。あまり、無茶させるな。気の毒だろう」 「え〜でも〜」 「でも、じゃないっ。『誰でもいいからかかってこい、俺が相手だ』って英軍の前で叫ばせるぞ」 「……無理ですごめんなさい俺が悪かったです」 くすっ、と菊が笑う。 「周囲を説き伏せて、ここまで来て本当に良かった」 「俺も、お前に会えてよかったと思う」 ぽつりと呟いたルートは、苦笑いをする。 「確かに気恥かしいが、お前のは口下手にも程がある」 ルートがそう言うと、菊は憮然と言葉を返した。 「日本男児は、おいそれと喜怒哀楽を口にしないんです」 それは一体どんな習慣なんだ。と、首をひねるふたりだった。
「ところで。何故お前が菊の服を持ってるんだ」 「菊が苦しそうだったからさ。この詰襟はよくないんじゃないかと思って、脱いでもらったんだ」 その効果の程は謎だが、代わりに自分の服を被せて休ませたフェリの好意は十分菊に通じた。 「この服、隠しポケットが多くて面白いんだ。NINJA仕様なの?」 ぺたぺたと白い軍服をなでていたフェリは、ポケットからはみ出した白い何かに気がつく。引っ張ると、細い帯状の布が出てきた。 「これは……リボン? 菊ってば、こんなのを持たせてくれるイイ娘がいたんだね」 白いリボンは黒髪に映えそうだと、フェリはのんびり想像した。 「たしかに、頭につけるものですが」 珍しく、菊は驚きをあらわにしていた。彼の言は、明らかに意表を突いたらしい。 「あれ? 違うのかな?」 「ええ。それは鉢巻きと言います」 そう言って、菊は自分の額に触れた。 「ここに巻くんです」 「え? 菊が使う物なの?」 それを聞いたフェリは、鉢巻きを掲げて菊に迫る。 「ねえ、つけてもいい? 見たいなぁ俺」 無邪気に迫るフェリの態度に、なぜかひやりとしたものを感じるルート。だが、菊は笑顔で「いいですよ」と答えた。 「前髪は押さえない方がいいの? 巻く、ってことは……こう、かな」 菊の黒髪をくるりと回る白いリボン。「似合うよ〜」と言いながら正面に回ったフェリは、言葉を呑みこんでしまう。 目を閉じて、かすかに微笑みを浮かべた菊は……なぜか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。 「あの、それやっぱり……」 はずそうか。と言おうとしたフェリの先手を取るように、菊が声を出した。 「ルートヴィヒさん」 「何だ」 背筋を伸ばして微動だにせず、微笑も崩さず。菊は自分の願いを告げる。 「結んでいただけますか。ほどけないように、堅く」 「……判った」 おろおろとふたりの顔を見比べるフェリを置いて、ルートは菊の背後に立つ。 結ぶ動作は一瞬で終わった。三人が共に、なんとなく言葉を失った空白を、柱時計の音が重々しく破った。 「時間です。行かなくては」 立ちあがった菊が、ふたりに会釈する。その表情には相変わらず微笑みが浮かんでいるが、「あんなの、笑顔じゃない」とフェリは思う。 「菊!」と呼ぶと、彼は戸口で振り返った。 「また、会おうね。会える、よね?」 フェリの声が震えた。菊はもう、ふたりとは目を合わせずに呟いた。 「私もそう、望みます」 静かに扉は閉められ、足音が遠ざかってゆく。 「ねえルッツ。菊は俺たちに会いに来た、って言ってくれたけど。もしかして……」 「言うな」 ルートの手が、フェリの口を柔らかくふさぐ。 (菊は、別れの挨拶に来たのでは)とは、思っても口には出したくなかった。
日本がアメリカに宣戦布告したのは、それから数カ月後のことだった。
終
*舞台は、1941年の秋です。
菊は、時代によって性格が少し違います。このころはまだ内気で、引っ込み思案。頑固者はずっと変わりませんが(笑 ふたりを愛称で呼ぶようになるのも、もっと先です。多分、四半世紀ほどかかります。 高度成長に伴って、彼の性格も明るくなっていきます。オタ化も進むのですが、そっちは書けるかどうか……。 この不器用な人が、21世紀には耳つけてはしゃぐんです。その間を、徐々に埋めていけたらいいなと思っています。
「ふたりに鉢巻きを巻いてもらう菊」を書きたかった。これはそういう話です。
滅茶苦茶判りにくいんですが、これが菊の「デレ」です。 嬉しさも寂しさもすべて胸に畳んで、彼は一人で戦場に向かいます。
Write:2009/10/03 (Sat) 07:16
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