ドミノ倒し
菊が訪独したのは、短い秋が終わろうという季節だった。
日本と違い、この国には残暑という言葉は無い。木の葉が散り始めたら秋で、散り終わったらもう冬だ。
ビアガルテンは休止し、ワインの新酒祭りには少し早い。「それでもいいのか?」とルートに問われた菊は、「私はどれだけ酒好きと思われているんですか」と笑ってしまった。
人々がすっかり着ぶくれた空港に到着した菊を迎えに来たのは、フェリシアーノだった。
「久しぶりだね〜会えて嬉しいよ!」と飛びついて来た友人を、失礼にならない程度に押しとどめて挨拶を返す。
当り前のように菊の荷物を引き取り、先に立って菊を案内するフェリ。
「ルートは家にいるよ。急な仕事が入ったって。同僚が怪我?して、代理とか言ってた」
「ああ、それは仕方ありません。でも、それなら私は、お邪魔しない方がいいでのでは?」
菊が言うと、フェリがくるっと振り返って笑顔を見せる。
「お前が絶対そう言うだろうって、ルッツが言ったんだ! だから俺が迎えに来たの。判った?」
「いくらなんでも帰ったりしませんが」
菊が答えると、「そう? ボン市内でホテル取ろうとか思ってない?」とフェリが畳みかける。
そこは図星なので、とりあえず沈黙する菊。フェリは「やっぱりー」と笑って、彼の肩に腕をまわした。
「菊の考えそうなこと、だいぶ分かるようになったよ俺たち! 菊もそう思わない?」
抱き寄せるフェリに今度は逆らわず、菊はただ「おそれいります」とだけ、答えた。
ルートのアパートは整然と片付いている。天井が高いうえに、家具が軒並み大きいから、菊はここに来るといつも「自分が少し縮んだ」気分になれる。
家の主は、書類を片手に部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。その様を陰から見せて、フェリが事情を説明した。
「講演の代理を頼まれたから、原稿を暗記してるんだって」
「それは大変じゃないですか。ちなみに、いつなんですか?」
「明日」
帰ります。と、速やかに断言して、菊はすがるフェリを引きずる勢いで玄関にもどろうとする。
「待ってよ。菊は絶対、ルッツの邪魔になんかならないから! 俺が保証する!」
「でも……」
なおためらう菊の手をとり、フェリは「お願いだから〜」と訴える。
「ルッツのは仕事だから、仕方ないけどさ〜。でも、俺だって三人で久しぶりに会えるのを楽しみにしてたんだよ。菊まで帰ったら、俺ひとりになっちゃう。そんなのさびしいよ〜」
とても成人男子とは思えない泣言だが、フェリは大まじめだ。そして菊(と、ルート)は、彼の臆面のない素直さに弱い。
足をとめた菊の手を引き、まずは客間に誘導する。彼に帰られたら、ルートが気にするだろうと気をもんでいたフェリは、ひそかに安堵のため息を漏らした。
荷物を置いた菊が居間に入ったとき、ルートのぐるぐる歩きは一段落したところだった。
どたキャンを詫びるルートに「気にしないでください」と答え、菊は彼が暗記中の原稿を読ませてもらう。
「これは……WW2後の分割占領と賠償についてですか」
この内容なら、原稿などなくても彼の記憶と知識で十分に語れそうだと思い、菊はそう問いかけてみる。
「講演を頼まれたのが俺ならな。だが今回は代役だ。あるべき原稿の通りに演ずるべきだろう」
「そんなものでしょうか」と、菊は首をひねる。そのこだわりがいかにも彼らしいと思いながら。
キッチンから顔をのぞかせたフェリが、「休憩する? じゃ、コーヒー用意するね」と声をかけた。ルートが肩の力を抜いたのを見て、菊も何か協力しようと考える。
「そんなに原稿を睨みつけたら、疲れますよ。ちょっとやり方を変えてはいかがですか」
「と言うと?」
「もう、原稿は頭に入っているでしょう。私が読みますから、それを聞きながら暗誦してみてください」
私の発音では、お役にたてないかもしれませんが。などと謙遜するのは、菊のいつもの癖だ。
「ああ、それはいいかもしれない」
微笑んだルートが、ソファに座す菊の隣に腰を下ろした。
「お前の発音は悪くない、むしろ心地いい。だから……頼む」
ほめられた菊が照れるのも、いつもの事で。何となくソファの端まで腰をずらした菊は、低い声で原稿を朗読し始めた。
読みあげる菊の後に、ルートの暗誦が重なる。
微妙に発音の異なる声が輪唱のように、静かに連なった。
読み慣れた菊の発音が流暢に流れるようになった頃、ルートの声がほとんど聞こえなくなってきた。
(かなり暗記が進みましたね)と思っていた菊の肩に、突然ルートの頭がのしかかって来た。
「え?」
力なく菊にもたれかかる、ルートの上半身。肩に乗った頭部からは、軽い寝息がこぼれている。
「お、重い」
つぶされそうになった菊が小さく悲鳴を上げた時、ちょうどフェリがキッチンから戻って来た。ケーゼクーヘンとコーヒーを乗せた盆を持ったまま、目を丸くしている。
「助けて、ください」
小声で助けを呼ぶと、フェリは「静かに」というジェスチャーをしながら近寄って来た。ルートの身体に手を回し、抱きかかえるようにして方向を変えて少し位置をずらす。
「うん、これでいいや。ルッツも目を覚まさなかったし、上出来!」
「……何故」
フェリに体位を変えられたルートは、ソファに身を横たえて寝入っている。菊の膝を枕にして。
「ごめんね。俺、こいつの睡眠は絶対邪魔したくないんだ。菊にもたれて寝ちゃったんだから、菊のそばでいるのがイイと思う」
聞きたかった答えと微妙にずれている。それでも菊は「自分も、ここにいた方がいいらしい」と、素直に思えてしまった。
床に腰を下ろし、ソファの座部に背を持たせかけたフェリは、ルートが落ちないよう身をもって守っているつもりのようだ。
「ルッツはさぁ、ときどき眠れなくなるみたいなんだ。だから俺、こいつが寝ている時はいつでも守ってあげたいんだ。
こんな風に寝ちゃうところ、初めて見たよ。きっと、菊がいるから安心したんだと思う」
そう言いながら菊に笑いかけるフェリは、どことなく誇らしげだ。
相変わらず一途な人ですね。と、菊は呟く。
「え? 何か言った?」
フェリに問われたので、菊は笑顔でこう答えた。
「あなたはルートヴィヒさんに甘い。そう言ったんです」
フェリがくすり、と笑った。
「違うよ。ルッツが甘やかさせてくれるんだ。俺がそうしたいのを、知ってるから」
それはまた、深い情の示し方もあったものだ。と、少々あきれてしまう菊。正直ルートがそこまできめ細かく気を使っているとは思えないのだが、フェリが満足しているならそれでいいのだろう。
「そういうのを、気を許しているというのでしょう? あなたは特別なんですよ」
「え〜。そうなのかなぁ」
素直で無邪気なフェリが照れる珍しいところを見た菊の記憶は、そこでいったん途切れる。
「……あれ? 俺は寝ていた、のか?」
目を開いて初めて、自分が目を閉じていたことを意識したルートは戸惑う。
しかも、視界にあるのは天井。ソファでうたた寝していたらしいと気づくが、何故いつの間にと記憶はさらに混乱。
腹筋の片側が妙に重苦しいので手探りすると、そこにもたれた頭に触れた。
首を持ち上げて視認すると、彼のお腹を枕にフェリが爆睡している。床に足を投げ出して座り込み、ルートの腹にもたれかかっている。
思わず声をあげそうになったルート。だが、身を起こそうとして、頭の下にある堅いものがソファのひじ掛けではないことに気付いた。
「?」
頭の後ろに手をやり、ひと肌の温度を保つソレの正体を知ったルートは飛び起きそうになった。
「菊?」
彼が枕にしているのは、菊の膝だった。
(何故こんなことになってるんだ?)と、自らに問うても答えは返ってこない。
そんなパニックにも気づかぬように、菊もひじ掛けにもたれて眠っているようだ。
フェリがルートに、ルートが菊に。菊がソファに。それぞれもたれている様はまるでドミノ倒しだ。
「いったい何が起こったんだ」
それを確かめるためには、友人たちを起こさなければならないが。
居心地がいいような悪いような気分で、声をかけずらいルートだった。
終
*拍手お礼第10段でした。
何だか恒例化しそうな「枢軸で添い寝ネタ」です。ルートが真ん中。 前回が布団だったので、ちょっとシチュエーションを変えてみました。
時代は……60年代かな。時間軸が前後してすいません。 ふたりの好意をどう受け入れたらいいのか判らずに、戸惑っている菊。 このころはまだ、精神的に引きこもり傾向にあるというマイ設定です。
Write:2010/03/10
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