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die Tageskarte



 ミュンヘン――南ドイツ最大の都市。
 広大なバイエルン州には、第二の都市に相当するところがない。そのため、北ドイツに比べると色々なモノが首都に一極集中気味だ。
 それは観光客にとっては便利な場所という事でもある。ミュンヘンが最も多く観光客を迎えるのは9月だが、夏にこの街を訪れる旅人も多い。
(夏休みでミュンヘンっ子が居なくなるから、ちょうどいいよね)
 トラム(=路面電車)の中から、街を歩くバックパッカーの集団が見える。すれ違った観光客を見送りながら、マックスはそんな事を考えていた。
(ウチを選んで遊びに来てくれるお客様、大歓迎。気にいってもらえたら、なお嬉しいな)
 口に出さないひとり言をつぶやいていたマックスは、切符刻印機の前で立ちつくしている旅人に気がついた。ドイツの公共機関は、改札を廃止している。客は自分で切符に刻印するシステムだ。
 旅人はそれを知っているのだろうが、使い方が判らないらしい。
「それ、Tageskarte(=一日乗車券)だよ」
 つい、マックスは声をかけてしまった。驚いたように振り返った旅人に、もう少し説明を加える。
「ターゲスカルテは、24時間以内なら何度乗っても同じだから。だから、刻印は最初の一回だけでいいんだよ」
 ありがとう。と、英語とドイツ語で繰り返した旅人は、マックスとあまり視線を合わせようとしない。こういう反応に見覚えがあった。懐かしいなと思いつつ、つい言葉を続けてしまう。
「日本人かな?」
 問われた側はまず頷き、それから「はい」と声が出た。
「ああ、やっぱりね。俺も日本人の友達がいるから、そんな気がしたんだ」
 トラムの減速にあわせて、マックスはひらりと手を振った。格好よく背を向けて降車したまでは良かったのだが。
「あ。しまった荷物忘れたよ」
 座席に、食料を詰め込んだエコバックをそのまま置いて来てしまった。この手の忘れ物が戻ってくることは、まず無い。
「いや、今ならまだ間に合う」 
 トラムはバスと同じく、信号で停止する。市中央地区に差しかかって、スピードも出せなくなっているから……。
「走れば、追いつく!」
 こういう発想がギルに「体力馬鹿」と笑われるのは判っている。でも、(誰に迷惑をかけるわけじゃないんだからほっといてよ)とマックスは思う。
 彼の予想通り、トラムには次の停車場でおいついた。扉が開いたら駆け込み乗車するつもりだったマックスは、降車客に気付いて足を止める。
「あ」
 降りて来たのは、先ほどの旅人だった。「あのぉ」と声をかけて来た日本人は、手にマックスのエコバッグを提げている。
「あなたのバッグですね? 走ってくるのが見えたので、渡そうと思って」
 ぽそぽそ呟くと、旅人は荷物をマックスの手に押し付けた。
「え〜。君、親切だねえ! わざわざ降りて渡してくれるなんてさ!」
「ターゲスカルテだから、平気です」
 あはは、と和やかに笑うふたり。マックスが「Gute Reise!(=良いご旅行を)」と声をかけると、旅人は「ありがとう。私はこれから、レジデンツに行きます」と答えた。
 それを聞いて、立ち去るつもりだったマックスの足が止まる。
「君……今、何時だか判ってる?」
 問われた旅人は、腕時計を確認してぎゃ! と叫んだ。
「4時半……すぎてる」
 ちなみに、ほとんどの観光施設は五時に閉める。今から向かっても間に合わない。
 茫然と、時計と空を見比べている旅人。ミュンヘンは北海道より緯度が高いうえに、サマータイム実施中。この時期は、午後の9時を超えてもまだ明るい。
 日本人が太陽の位置を頼りに時間を勘読みすると、こういう事が起こる。
「今のトラムを降りなきゃ、間に合ったかも……だよね」
(ほ〜れ見ろ。やっぱリお前、体力馬鹿じゃねえか。ケセセ)とギルが笑う声が聞こえた気がした。嫌な空耳だ。
 肩を落とした旅人に、マックスはためらいがちに声をかける。
「別プランを考えるなら、相談に乗るけど?」
 
 ちょっと責任を感じでしまったマックスだった。


 旅人は、「実は行きたかった場所がある」と告げた。
「今からでも、国立歌劇場でオペラを観劇できますか?」と問われ、マックスは「Tageskarte(=当日券)は、行ってみないと判らないなぁ」と答えるしかなかった。
「ホテルでチケット売り場を教えてもらったんですが、当日券は『ここでは扱ってない』と言われました」
「うん。開場1時間前にならないと売りださないからね」
 売り切れずに残った席を販売するのが当日券。演目によっては席が残っていないことも珍しくない。
 逆に言うと、それまでは前売り券の扱いになる。本日席も窓口で買えたはずなのだが、「当日券を」と言われたスタッフが、そのまま答えてしまったのだろう。
 判らないならわかるまで聞けばいいとマックスは思うのだが、日本人はこういう時あきらめが良すぎる。
 そんな事を聞きだしている間に、ふたりは歌劇場についた。当日券売り場は、この目立つ建物のごく目立たない場所にある。
「今日は……わお、トリスタンだよ。君、大丈夫?」
 トリスタンとイゾルデは、ワーグナーの代表作。「これぞドイツオペラ!」な重苦しい大作なので、一応聞いてみるマックス。
「私は学生で、ドイツ史を専攻しています。ワーグナーにも関心があります」
「そうじゃなくて体力的に。総演奏時間が4時間。休憩挟むから、終演は深夜になるんだけど?」
「……頑張ります」


 開演まであまり時間がないので、劇場前のビアレストランに誘った。旅人はミュンヘン料理を興味深そうに口に運んでいる。
「私は、バイエルンを卒論のテーマに選びました」
「へぇ」
 目の前にいるのがその「バイエルン」だと知る由もない旅人は、言葉を続ける。
「諸王の名のついた通りや広場を歩いて、本当にバイエルンに来たんだと実感できました」
 それを聞いて、マックスは目の前の通りと自分を交互に指差して見せた。
 道の名は「マクシミリアン通り」。
「もしかして……」
「そう! 俺もマクシミリアンだよ。しかもルートヴィヒって名の弟がいる」
 免許証を見せられて、旅人は目を丸くしている。
「君がマクシミリアンやルートヴィヒに会いに来たのなら、ちょっと楽しい偶然って感じだね。
 まあ、マックスなんてありふれた名前なんだけど」
 ところで、そろそろ行かないと時間だよ。マックスにそう言われて、旅人は慌てて軽食を片づけた。
「今日は本当にお世話になりました。何と言って感謝すればいいか」
 堅苦しく挨拶されたマックスは、軽やかに笑って見せた。
「うん。君がバイエルンに好印象を持ってくれれば十分。我が国が気にいったら、またぜひ来てほしい」
 我が国という表現を、旅人は「地元愛あふれるミュンヘンっ子らしい発言」と解釈した。
 席を立つ前に何か言いたそうにもじもじしていた旅人は、「ドイツ語なら恥ずかしくない」と小声で呟く。
 妙なところで度胸がよかったらしい。
 マックスに向かって、「Ich liebe Bayern!」と告げると深く頭を下げる。(変な言い回しかもしれないけど、他に思いつかないし。いいやもう!)と、そのまま立ち去った旅人だった。


 いきなり愛の言葉を投げつけられたマックスの顔が、それはそれはすごい事になっていたなんて話は。
 その場に居合わせたビアレストランのオーナー(もちろんマックスの正体を知っている)の口から、こっそり関係各位に語られる逸話になったという。

 終



* 先日、ドイツ捏造兄弟チャットに参加しました。
  楽しかったです。
  皆さまの愛とウンチクをたっぷり聞かせていただけて、幸せ。
  
  というわけで、記念に「マックスとミュンヘン観光」を書いてみました。
  旅人視点で書くと「夢小説」になってしまうので、マックス視点です。
  日本人という設定だけで、性別には触れてませんが……。
  バイエルン史研究のためにドイツに行くのは女性だろう、という気がするのはなぜでしょう。

  なお、ふたりの会話はほぼ英語。ときどきドイツ語の単語が混ざるレベル。
  旅人の口調が堅いのは、教科書言葉で喋っている設定だからです。
  
  ぶっちゃけ「Ich liebe Bayern!」って言いたかっただけです。
  愛してるよバイエルン!

  お粗末さまでした。書いていて、久しぶりにとても楽しかった。


Write:2010/08/12

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