立ち止まってそばにいて
神聖ローマは、久しぶりにウィーンへ帰ってきた。 と言っても、彼にとってこの街は故郷でも自宅でもない。懐かしむ場所でさえない。 強いて言うと、暫定本拠地。そういう意味では「戻った」の方が事実に近い。だが、心の中でつい「帰る」という言葉を使ってしまう。 この街には、彼の会いたい人が居るから。イタリアがここに連れてこられて以来、神聖ローマにとってウイーンは「あの子がいる場所」になった。 帰るという言葉の意味を、ようやく実感できたとさえ思う。こんな事は誰にも……イタリア本人にさえ告げたりしないが。
イタリアは、いつもの台所にいなかった。庭にも洗濯場にもいない。 買い物にでも行ったのだろう、と思った神聖ローマは、とたんにオーストリアの美しい館への興味を失った。 あの子がいなければこんな建物、豪華なだけの空箱に等しい。 そう思って、足を敷地から外に向ける。特に当てはないが、彼を待ってくれているはずの人がいない場所にいるくらいなら、彼を知る人がいない場所の方がましという気分になっていた。 にぎやかだけどどこか優雅さの漂う街並みを抜けると、その先に公園がある。何度かイタリアに連れられて散歩した場所だ。 行き先を定めずに散策するつもりだったのに、結局彼女の影を追っている。そんな自分に気づいて、神ロは苦笑してしまった。 ところが。遊歩道の少し先を歩くエプロンドレス姿に気がついた神ロの表情が一変した。木陰をゆっくりと散策しているのは、間違いなくイタリアだ。 なんだ、あの子もここに来ていたのか。何という偶然。いや、もしかしたらこれが運命? そんな事を考えて頬を緩めていた少年の顔が、すぐに引き締まった。イタリアの様子が、おかしい。 ぶらぶら散歩しているのだと思ってた歩調はむしろ重く、よく見ると足を引きずっている。その上時々身体がふらりと傾く。 そこまで見てとると、彼は素早くイタリアのそばに駆け寄った。「おい!」とつい大きな声で呼びかけてしまう。 びくり、と。イタリアが、肩を震わせて振り向いた。血の気の失せた、熟さない桃のように青い顔で「あ、神聖ローマ! いつ帰ったの?」と微笑もうとする様が痛々しい。 「そんな事はどうでもいい。何があったんだ? 誰かにいじめられたのか?」 問うと、立ち止まったイタリアの身体がまたふらっと傾いた。支えようと二の腕に触れると、彼女の口から小さく悲鳴が漏れる。 痛い。と呟かれ、神ロはますます焦る。長袖をそっとめくった彼は、我が目を疑った。 イタリアの腕には、赤青黄と不気味にまだらな打撲傷が浮かんでいる。たぶん、見えない場所にも同様のあざができているのだろう。 普通の人間なら、物理的な暴力を受けたと考えるところだが。イタリアは彼と同じく『国の人』。 伝え聞いた各国の現状と考え合わせ、神ロは一つの回答を得る。 「お前の家で、独立運動が起こったのか……」 言葉を呑みこんだ神ロに、イタリアがかすかに微笑む。 「あ、判っちゃった? でも、何もできないうちに制圧されちゃった……」 独立へ高まる情熱はイタリアの体温を上げ、一転して踏みつぶされるとその血は一気に冷える。 彼ら『国の人』は、国に何かあると体調にでる。この戦いで被った損害は、危うくイタリアを仮死状態に追いやるところだった。 ぐすぐすと涙声になるイタリアに肩を貸し、とりあえず人目につかないベンチに座らせた神ロだった。
並んで座った神ロにもたれ、イタリアは目を閉じている。 「痛いか?」 問うてから、無駄な事を聞いたと自分の不器用さを呪う神ロ。身体も心も、痛いに決まっている。 「うん。でも、神聖ローマはいつもこんな思いをしてるんだよね」 神ロが戦場から還ったばかりだと知っているイタリアは、そう問い返してきた。 「君はいつもこんな体で頑張ってるんだ。気がつかなくてごめん」 「俺はいいんだそういう『モノ』なんだから。でもお前は違うだろ」 明るく美しい国、イタリア。自国を愛する国民が、独立を取り戻したいと願うのは当然だと神ロは思う。そう感じるのが彼だけではない証拠に、反抗を阻止しようとする締め付けはいつも厳しい。 もたれかかるイタリアの肩や腕を、控えめな手つきで撫でる。できるものならこの痛みを、引き取ってやりたいと思った。 「どうして俺たちは、こんな身体なんだろう」 神ロの呟きを聞いて、イタリアが首をかしげる。 「こんな、人と同じ肉体なんか持ってなければ。お前も痛い苦しい思いをしなくてすむのにな」 性懲りもなく戦を起こして奪い合う領土。いっそ土地だったら少なくとも、痛みを感じる事はないだろう。 そんなことを呟くと、黙って聞いていたイタリアが口を開いた。 「悪い事ばかりじゃ、ないと思うな」 イタリアは、肩を撫でる優しい手に自分の手を重ねた。 「ぼくの痛みを、君が悲しんでくれる。それがぼくは嬉しいよ」 ねえ。と、イタリアは友人に呼びかける。 「皆がそんな事を考えたら、戦争しなくなるんじゃない?」 そんな事は絶対にない。とは、思っても口に出せない神聖ローマ。痛いどころか死ぬと判っていても、殴る手を止める事が出来ないのが人間だと、彼は思っている。 だから。 「わかった、お前の事は俺が守る」 イタリアが踏みつけにされてなくなるように。そのためには、皆が等しく権利を持てるひとつの国になればいい。 蒼い瞳に決意をこめ、立ち上がった神聖ローマ。イタリアは友人の急変について行けず、それでも何かを感じ取って叫んでいた。 「神聖ローマ、どこに行くの? ぼくは、君が痛いのも嫌なんだよ! ねえ、聞いてる? 判ってる? ぼくの声を聞いて!」
「しん……ろー……」 喉から声が漏れたことで、フェリシアーノは目が覚めた。跳ね起きたのはいいが、今まで居た夢の世界とあまりに風景が違うので戸惑ってしまう。 「あ……」 声をだすと、かすかな足音が近づいてきた。その人物の顔を見て、やっと彼は自分が今いる場所を思い出した。 「菊……。俺、寝てた?」 「はい。よくお休みでしたよ」 ここは東の果ての国、黒い髪の友人の自宅だ。 座卓に冷たい茶器を置き、菊は彼の隣に膝をつく。落ち着いた雰囲気が、夢の余韻で揺れていたフェリの心を引きもどしてくれた。 ふと気づいて顔を撫でると、頬がぬれている。寝たまま泣いていた事をごまかせそうにないと思ったフェリは、照れくさそうに「夢、見てたんだぁ」と呟いた。 もちろん菊は気がついていたが、自分の方から問いかけずにすんでほっとしていた。フェリが夢の中で泣くという話は、以前聞いた事がある。 悪夢というより、寂しさや切なさを思い出す夢らしい。そう思った菊は、フェリに声をかけた。 「あの……ルッツを呼びましょうか?」 フェリは驚いたようなあきれたような表情で、菊を見つめた。空気を読む事にかけては名人の菊は、(何か間違えたらしい)と即座に気付く。 「ねえ、菊」 「はい」 菊のそばに這い寄って、フェリは彼の膝に顔を伏せた。 「俺、昔の夢見ちゃった。泣いちゃうくらい懐かしい人の夢だよ」 「はい」 まるでそうすることが決まっていたように、菊は彼の頭を静かに撫でる。 「ねえ、菊」 「はい」 「俺たち、友達だよね?」 「……はい」 菊の膝に、温かい水がジワリと染み込んだ。 「なら、ルッツを呼ぶなんて言わないでよ。お前が慰めてくれたらいいじゃない」 「でも、私より彼の方があなたには……」 言いかけて菊の言葉を、フェリが小さな声で遮った。 「俺のためって言うなら、今そばにいて。どこにもいかないで。 俺、他に何も望んでないんだ」 だめかなぁ。と呟くフェリの背中を撫でながら、菊はやるせない思いを胸に抱える。
フェリシアーノの過去に何があったのか、菊まだ聞いていない。 ただ、彼が夢で泣き、現で慰めを得ることで、薄紙を剥ぐように傷をいやしてきたのだと想像はできる。 その役が自分に務まると思っていなかった菊は、自己評価の低さを少なからず反省した。 やがてフェリは再び寝息を立てはじめる。 (今度は良い夢を見られますように)とひそかに祈る菊だった。
終
*拍手お礼文第15弾でした。
フェリは、普通に目覚めると夢の事をあまり覚えていません。 でも、急激に覚醒すると逆に夢を濃厚に抱えたまま目覚めます。 今回は、そんな話でした。前半が神ロ視点なので、ちぐはぐな印象になってますね。 ちびたりあと神ロの会話は、嫌になる程書き直しました。 どうアプローチしても暗い雰囲気になるので、気にいらなくて。 結局すごく短くなりました。
こちらに移すにあたり書きなおそうかと思ったのですが。
冒頭の、神聖ローマ視点の文章が気に入ってるのでそのままにさせてもらいました。
Write:2010/10/17
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