つきひがたつのもゆめのうち
「海だよ海! 絶〜対、海」
「何を言う。夏こそ登山だ」
朝餉を囲みながら続く討論に、菊はほんのり頭痛を感じていた。
昨日あんなに遊び倒したのに、今日はすっかり回復した元気な友人たち。さっきまで楽しそうに「どこに行こうか」と話し合っていたのだが。
「この小さな島に、バラエティに富んだ名山がこんなにあるんだぞ。山に行かずしてなんとする。お前の目はどこについてるんだ」
「それを言うなら、菊んちの周囲は全部海じゃないか! 海に行かないでどーすんのさ!」
いつも仲のいい二人でも、言うときには言うんですね。などと菊が考えているうちに、ふたりの会話は「交渉決裂」という形で決着した。
「じゃ、俺今日は海に行くからね!」
コレが最後だと言わんばかりに宣言するフェリに、ルートは軽く手を振って答えただけだった。ぶんむくれたフェリが足音高く部屋に戻るのを見ながら、菊は「いいんですか」と聞いた。
「良いも悪いもないだろう。意見が合わないなんてよくあることだ」
そう呟いたルートは、ふと菊に視線を向けた。
「菊は、俺達がいつも一緒だとでも思っているのか? 言っておくがそれは誤解だ。すみやかに認識を改めてくれ」
それは、その通りだろう。ふたりとも普通は自分の国で仕事しているわけだし、どちらも自分の兄弟と同居している。でも菊にとっての彼らは正に『御神酒徳利』なわけで。
「たしかに、貴方たちを別々に招待することなんて、思いつきもしませんでしたよ」
菊が言うと、ルートはため息ついて「やっぱりな」と答えた。
「だって。貴方だけを呼んだら、フェリが黙っているはずありません」
ルートが抜け駆けして遊びに行くと知ったら、彼はどんな無茶でも通してついて来るだろう。そして、置いていかれたことに盛大に文句を言う。
「ええ、もう。情景が目に浮かびます」
そんな面倒はごめんです、と気だるげに呟く菊。珍しく本音が包みきれていない。彼の言葉に反論できず、黙り込むルート。
「ああ、フェリだけを招待するという手がありましたね。彼も子供じゃないんですから、ひとりで来日しても問題ないでしょう」
特殊な場面ではヘタレな点ばかり目立つ彼だが、一通りの常識はあるしローデのように方向音痴でもない。判らないことは聞いて何とかする機転も持ち合わせている。そう、別に何も問題はないはずなのだが。
「もしそうなったら、私はホストとして誠心誠意、全力で彼の面倒を見ましょう。この身に代えてもやり抜いてみせます」
ここまで言われてしまうと、なにやら胃痛がし始めるルートだった。普段からフェリに振り回されている実績は伊達じゃない。
「もういい、俺が悪かった」と、ルートは降参した。
その後、「どの方向に向かっても海でしょ」という超アバウトな発言を残して、フェリはひとりで出かけてしまった。彼の頭には日本地図しか入ってないのでは? と不安になった菊だが、フェリが発する「これ以上俺にかまうな」電波を感じて、口をつぐんでしまった。
ルートが携帯のネックストラップを彼の首にネクタイのように結び、「携帯ははずすな。電源は切るな。必要ならマナーモードにしろ」などとぐだぐだ言うから、フェリの不機嫌度はさらに上がっていたようだ。
菊が午前の家事を済ませている間、ルートは何度か電話をかけたりネットで調べ物をして過ごしていた。途中アイゼンとかピッケルとかという言葉が聞こえたので、菊が思っていたより本格的な登山を想定しているらしいことがわかった。
「おい、菊。ちょっとこの登山計画書をチェックしてほしいんだが」
そこまで本気?! と驚く菊だったが、見ればルートの手元には「日本の名山百」の英語版がある。しかも付箋がたくさんついていて、いかにも読み込まれている風情だ。
「そんなに登山したかったのなら、事前に教えてくれればよろしかったのに」
菊があきれ声で告げると、ルートはやや居心地悪そうに視線をそらした。
「日本の山にはかねがね興味を持っていたが、今回はお前たちの予定に合わせるつもりだったんだ。せっかく一緒に遊べる機会なんだからな」
という照れくさそうな告白が本音なら、あんな喧嘩をする必要はなかったのでは? そこまで考えた菊が、あることに気付く。もしかしたら……。
「実は海、苦手ですか?」
ぎくり、と大きな身体を震わせるルート。骨の髄まで内陸の男だから、そういう可能性もあるかと思ったが、ビンゴだったようだ。
「山ほど得意ではない、ということだ」
「最初にそれを言えば、何も問題なかったはずですよ」
菊がつっこむと、ルートが肩を落とした。負け惜しみを言ったりしょげたりと、本当に珍しい。
「まったく。何が『いつも一緒にいるわけじゃない』ですか」
仲のよさに甘えてるんじゃありませんよ。とまでは、言わずに飲み込んだが。こらえきれず、菊は笑い出した。まったく、このひとは。
片意地を張ってフェリを怒らせて。国際会議ではいつも驚くべき粘りで妥協や譲歩を引き出す名人のくせに、何と不器用な。
「登山はまたの機会にしましょう。そのときは、私も付き合いますから。フェリにもちゃんと説明すれば、納得してくれると思いますし」
ルートが登山に興味を持っていることを素直に話せば、フェリはあんなに怒らなかったんじゃないかと菊は思う。
「そうだな。改めて箱根に誘ってみようと思うんだが、菊の予定は?」
そういえば、最初はそんな話だった気がする。言い争っているうちに頭に血が上り、登山計画書まで上り詰めたのだとしたら。
フェリは今頃どこで何をしているのだろう? 菊は少しだけ不安になる。
彼のことだから、どこかのビーチでナンパにいそしんでいるのだろうと無理やり納得したとき。彼の家の固定電話が鳴り出した。
菊の額につい、縦ジワが寄る。最近は彼も携帯を使うことが多いから、こっちの番号にかかってくる電話はほぼ仕事がらみだ。
「急な仕事、なんてことになりませんように」。冗談めかして呟くと、電話に出る。
…はい……そうです……ええ、それは……。
菊のやり取りを耳に入れないよう、縁側に立って気を外に向けていたルートは、友人の悲鳴に思わず振り返った。
「え? そんな何かの間違いじゃ……わかりました、すぐそちらにむかいます」
ちん、と無機質な音を立てて電話は切れた。
受話器にすがりつくように立ちつくす菊の体が小刻みに震えるのを見て、ルートは我知らず血の気が引いてゆく。
ただごとではなさそうだ。
「大丈夫か、菊。事情を話せるなら……」
近づいたルートに、菊が突然体当たりしてきた。「あ…」とうめく彼の顔は、居間の障子より白い。
「フェリが……」
ルートのTシャツにすがりつく菊の指が、恐ろしく冷たい。
喋ろうとしても舌がもつれるのか、言葉がうまく出てこない菊。それでも、たった一言フェリの名を出しただけで激変したルートの顔を見て、彼は勇気を振り絞る。
そう、まったく呆けている場合じゃないのだ。
「フェリが、東京湾観光クルーズ船から落ちて……行方不明、だそうです」
次の瞬間、菊の視界がぐらりと傾く。
ルートが彼を抱えたまま尻餅をついたと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
「っつ」
ルートに抱えられたまま転んだ菊は、自分で体勢を整える猶予もなくしたたかに膝を打った。
すまない、大丈夫か? とルートに問われたが、明らかに心がここにない。それが証拠に、彼が呟いているのは独語だ。
「ご心配なく」
答えながら菊が身を引くと、彼の肩に回っていた手が力なく床に落ちた。
いや、それどころか。ルート本人がどこかに沈んでいきそうな雰囲気だ。首をたれ、子供のように膝を抱えてしまった友人の姿を見て、菊は逆に腹が据わった。
「あなたが……そんな……」
まだ震えの残る己の声を何とか制御して、菊はルートに呼びかける。
「貴方がそんなことでどうするんですか!」
彼の両肩に手を置き、力強く揺さぶる。
「フェリが死ぬはずないでしょう!」
『死』という言葉に身をこわばらせるルート。かまわず菊は続ける。
「自分を責めている場合ですか! 後悔なんて後でやることです。まずは落ち着いてくださいっ」
誰かいたら「落ち着くのはお前だろ」と言われそうな勢いで菊は叫んでいた。もしかしたら、落ち込んでいる人を叱責するなと非難されるかもしれないが。
「私たちが、溺れたくらいで死ねるはずないんです。……そうでしょう?」
不思議なことに。ルートに届いたのは、この奇妙に静かな言葉だった。
のろのろとルートが顔を上げ、真正面から菊を見た。その蒼い瞳に視線を合わせ、菊は言葉を繋ぐ。
「フェリは海の男です。きっと、あわてず救出を待っています。彼を信じましょう」
「救出……」
「そうです。早くしないと彼、乙姫をくどきに行っちゃいますよ」
「乙姫?」
内容は何でもいい。とにかく会話になってきたことに安堵しながら、さらに菊は語りかける。
「わが国の海底御殿に暮らす、伝説の美女です。情に厚くて客人をもてなすのが趣味でそのうえ、寂しがりやなんです」
「ああ。そりゃヤバいな」
ユーモアに答えることができるのは、感情が戻ってきた証拠だ。沈み込んでいた青年は驚くべき速さで、自分を立て直してきたらしい。
「海鮮珍味と舞い踊る美女が総出でおもてなしです。ヤバいです」
真顔で菊が答えると、ルートの表情がゆるんだ。目つきがいつもの彼に戻ったのを見てとった菊は、ようやく微笑みに見える表情を作ることができた。
「必要な交渉や要請、そういうのは私がします。あなたには運転手でもしてもらいましょうか」
「そうだな。さしあたって他に出来ることもないようだ」
「え〜。ふたりともどこに行くの? 俺を置いて行くなんてひどいよ〜」
突然割り込んだユルい声が、ふたりを凍りつかせた。
「…………フェリ?」
話題の渦中の男が、庭でニコニコと手を振っていた。
「ただいま〜。菊、わるいんだけどとりあえずお金貸して。タクシー代待ってもらってるんだぁ……って。あれ? どうしたのふたりとも怖い顔して」
次の瞬間、目を吊り上げたルートと菊がフェリに詰め寄っていた。
「どういうことなのか、説明してもらおうか(してください)っ!!」
後に「ルッツが二人いるのかと思ったくらい怖かったんだ〜」と、フェリシアーノ・ヴァルガス氏は語ったという。それほど彼らの剣幕はすさまじかった。
説明された。
「海に行く」と告げたフェリは、観光クルーズ船に搭乗待ちをしていた外国人観光団と知り合った。
「つまり、可愛い娘がいたのか」とルートに突っ込まれたフェリは、悪びれずに照れ笑いをする。予想が当たってもちっとも嬉しくないですね、と菊は心の中でため息をついた。
彼ら(正確には団体の中の可愛い娘)と一緒に船に乗り込んだフェリは、それなりに観光を楽しんでいたらしい。
「途中で船が揺れたとき、お客さんが一人海へ落ちちゃってさ。それで俺、助けなきゃと思って飛び込んだんだ」
とっさに行動できたのは上出来と褒めるべきなのだろう。だが、とてもそんな素直な気分にはなれない菊に睨まれ、フェリは居心地悪そうに右肩をかばう。
二人の前に正座した彼は、右腕を三角巾で吊るしている。
「船の人は、俺も助けようとしたんだよ。でも……」
落ちた客を持ち上げ、船上に引き上げてもらうまでは良かった。しかし。
波が被った拍子に右肩をぶつけ、彼は腕が上がらなくなってしまった。片手で泳ぎながらバランスを取っているところに再び来た大波にさらわれ、フェリはあっという間に流されてしまった。
気がついたときには船影も見えなかったので、「とりあえず陸だろう」と思える方向に、時々休みながら泳いでそのうちに。
「通りかかったヨットに拾ってもらえたんだぁ」
「拾ってもらえた、じゃないです。あなた太平洋なめてるんですかっ! 大陸の隙間みたいな内海と一緒にしないでくださいねっ」
「よーし菊、とりあえず地中海に謝れ」
菊がとにかくバリバリと怒っているので、突っ込みに回ってしまったルートだった。普段あまり感情をあらわにしない菊の様子を、「らしくない」と感じながら。
幸いというか、ヨットの乗員に看護師がいた。応急処置をしてもらい、服を借りている間に寄港したヨットを降り、すぐにタクシー飛ばして帰ってきた。
「こんな状況であります。俺、二人が何も知らないと思ったから安心して帰ってきたんだよ。ごめんね心配させちゃって」
「黙っていれば隠し通せるとでも、思っていたんですか」
菊に冷ややかに切り返され、フェリはしゅんとしょげてしまう。
「お前がそんなに怒るとは、意外だな」
ルートが呟くと、反論は思わぬところから返ってきた。
「何言うんだよ! 菊は俺とルッツの両方を心配してくれたんでしょ。
だから、ルッツの二倍怒って当然だよぉ」
フェリにさらっと真実を指摘され、絶句する菊。
(これだからこの子は……侮れませんね)
ルートの目が見開かれ、見る見る顔が赤くなっていく。
たしかに、彼は菊のことが念頭になかった。今迄まったく思い至らなかった事実を指摘され、恥ずかしさのあまり消えてしまいたい心境だった。
「あなたが言うことじゃないでしょう」
その横で、菊がフェリの額にチョップを入れていた。
フェリが行方不明になった時。海上保安庁などに緊急連絡を入れたクルーザーでは、乗客名簿の照らし合わせを行なっていた。誰もがフェリを団体客だと思っていたので(例の女の子まで!)、照合に手間取ってしまった。
フェリの名前が確定し、宿泊先と記入した菊の家の固定電話が鳴った頃、実は彼はもう陸にいた。ということらしい。
「で、さあ。どこに遊びに行く相談だったの?」
喉元過ぎればナントカ、ということわざを体現するフェリの額に、菊のでこピンが綺麗に決まった。
「まず病院! それから警察と海上保安庁と、ああもしかしたら外務省にも連絡が必要ですね」
「えぇ〜面倒くさいよ」
「お前のせいで、どれほどの人に迷惑かけたと思っているんだ!」
ルートに胸倉つかまれ、たわいなく降参するフェリ。上がらないはずの右腕を必死で振ろうとしているのは、もしかしたら白旗のつもりだったのかもしれない。
すべてが決着するのに、ほぼその日の残りの時間を使い果たした。
入院するまでもナシと診断されたフェリは菊の家に戻り、今は先に眠っている。
ルートと菊は縁側に並んで座り、寝酒のビールを飲み交わしていた。怒りすぎ、疲れすぎたせいか、なかなか眠くならない菊だった。
「今日はすまなかった。俺は……」
改まった口調で言いかけたルートをさえぎり、菊はゆるく笑う。
「あなたが謝ること、ないでしょう」
誰のせいでもありませんよ、と菊が言うと、ルートは頑固に首を降る。
「色々ありすぎて、何を言っていいのか判らないんだが。これだけは聞かせてくれ」
聞いて、ではなく聞かせてという言葉に引っかかり、菊は視線で話を促した。
「昼間、俺に『溺れたくらいで死ねるはずがない』と言っただろう」
『死ぬ』ではなく『死ねる』。確かに意味が違うし、菊は意識して使い分けた。だがまさか、あの状況でそんな些細なことに気がつくとは……。
視線をそらした菊を見て、ルートは姿勢を正した。
「もしよかったら、何があったのか教えて欲しい」
単なる好奇心などではないと、菊は素直に思えた。ルートは生真面目な表情で彼を見つめている。
「年寄りの昔話は、長くなりますよ」
その言葉を、ナチュラルな拒否と受け止めたルート。
「せめて知っておきたいと思うのは……迷惑なのか?」
自分の若さに引け目を感じているらしい彼には、言い方がマズかったかと菊は思いなおす。
「本当に長いんですよ。ずいぶん昔の話ですし。半ばは夢の話かもしれないんですが……それでも、聞きたいですか?」
頷くルートに、菊は言葉を返した。
「じゃ、また遊びに来なさい」
珍しい口調で告げた菊だが、次の瞬間にはいつもと同じ笑顔を彼に向けた。
「ただし。話を聞きたかったらフェリを振り切って来るのが条件です」
できますか? と微笑む菊をまぶしそうに見つめていたルート。
誓約するように真顔で、「約束する」と答えた。
その後はあまり喋ることもなく、なぜか有り余るほどあるビールをふたりで空けて。
気がつくと朝になっており、酒に強いはずのルートが、昨夜の出来事が夢なのか現実なのか区別のつかない有様だった。
まさか本人に真偽を問うわけにもいかず、とりあえず単独で来日する計画を立てるルートだった。
終
※前作で言った「ルートが菊と語る話」です。
またしてもとんでもないことになり、わたしはどうすればいいんだか(オロオロ
これを書いていた時は結構忙しかったんです。でも、この妄想が脳から離れてくれずオーバーヒート気味。
一刻も早く放出しないと、頭が焼ききれそう。そんな状態でした。
あ〜もう、何でこんな展開になっちゃったんだろう。と、心の中で泣きながら話を作っていました。
一番書きたかったのは、最後のシーンです。ちょっと神秘的(?)な菊。
珍しく命令形で話したりします。思った雰囲気が少しでも伝われば良いなと思います。
ああ、楽しいけどしんどかった。製作中は主なシーンがずっと脳裏を離れず、ちょっとでも隙があると脳が勝手に推敲始めちゃうので……しんどかったです。
翌日の話→フェリは海の子
Write:2009/07/17 (Fri) 17:29
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