いままでもこれからも
ギルは働くことは嫌いではない。むしろ身体を動かすことも、それによって何かを成しえるのも好きな方だと自分では思っている。
「要するに、あなたは自分から何かをするのが好きなんだ。だから、仕事と思うとととたんに嫌になる」。と彼に言ったのは、まだ幼顔を残した頃のルートヴィヒ。 「兄さんはそれでいい、後は俺に任せてくれ」とギルに言ってくれたのが……遠い昔のような気がする。
「どうしたの? また、眉間にしわが寄ってるよ」 今現在、ギルの目の前で書類に目を通している男が声をかけてきた。「うるさい」と言いたいのをこらえて、ギルはつい自分の額を軽く押さえる。 そんな彼のしぐさを興味深げに見ているのは、北の巨人ことイヴァンだ。室内でもなぜかマフラーを外さない。 「こういう仕事はつまらないよね。でも、僕たちの国の話だから、しっかり取り組んでほしいな」 「……やってるじゃねえか。お前んちの奴らよりずっと勤勉だぜ、俺は」 (複数形を使うな、虫唾が走る)と罵りたいのをこらえても、口の悪さは隠せない。しかし、悪態をつくギルに全く動じず、イヴァンは微笑みに見える表情で彼を見ていた。 身体もでかいが、何より存在感が巨大なのこの男と差し向かいの仕事は、ギルでさえプレッシャーを感じる。 「たしかにそうだね。じゃ、うちの人たちを研修生として預かってくれる?」 「どうあっても、仕事で縛りつけたいのかよてめぇは!」 ギルは手にしていたペンを放り出し、靴のかかとを書机の上に蹴りおろす。 がつん、と耳障りな音が響いた。
同室にいるバルトの三国が、そろって飛び上がった。聞いてるだけで精神力削られるらしく、顔色が蒼い。 ライナは心配そうな目つきでこちらを見ているが、表情は落ち着いたものだ。ナターシャなど、最初から兄以外の存在には無関心を決め込んでいる。イヴァンの姉妹だけあって、見かけより肝が座っているのかもしれない。 「やめてほしいな。あとでとばっちり喰らうのはいつも僕らなんだから」
書棚の陰でぼそっと呟いているのは、リーア。(聞こえてるぞ)と視線で脅すと、机の下に隠れてしまった。
(マジかよ)などと思っていたら。どこからともなく現れたフェリクスが、鉛筆でリーアをつつき始めたので良しとする。
クソガキがどこでサボっていたのかは、後で問い詰めればいい。てーか、シメる。 その時、すぐそばで椅子を蹴って立ち上がる気配がした。 「いい加減にしてくれない? さっさと終わらせて帰りたんだから」 そう言いながら、ほぼ臨戦態勢な目つきでギルをにらんだのは、エリザだった。手に持っているのは、文鎮。 「いや待て、お前とはやりあいたくねぇ。俺、五体満足で国に帰る予定だから!」 「失礼ね。人を猛獣みたいに言わないでくれる?」 低い声で唸るエリザは、ストレス貯めすぎてキレる寸前に見える。昔馴染みのギルには、そのボーダーラインがはっきり判る。 「わかった! 淑女の命令には従うぜ。だからその手を下ろしてくれ頼みますっ、文鎮は明らかに鈍器だろオイ」 膝をついて首を下げるギル。「淑女」と呼ばれ、騎士の礼まで取られて、エリザはいちおう引き下がった。 「思ってもない事を口にするのは、やめて。バカにしてるの?」 皮肉っぽい返答を忘れない所は、さすが長年の好敵手。この発言でギルが(普通に戻ってよかった)とほっとするあたり、彼らの関係が垣間見えてしまう。 「うん、そろそろ終了時間だよね。皆でやれば、仕事も楽しいね」 机に肘をつき、組んだ掌に顎を乗せた姿勢でイヴァンがひとり頷いている。 そうか? という、疑問符を含んだ感情が部屋を駆け抜けたが、口に出す者はいなかった。ギルでさえ遠慮した。 イヴァンはそんな空気を知ってか知らずか、「今日はボルシチが食べたいな」とのんびり呟いている。 「具がとろけるくらい煮込んであるのが、好きなんだ」 「まあ、好みは人それぞれだよな」 「野菜も肉も区別がつかなくなるくらいじーっくり煮ると、美味しくなるよね。そう思わない?」 語りかけられたギルは、肩をすくめてこう答えた。 「……シチューの話だよな?」 一瞬だが、ここにいる全員が鍋で煮られる情景を想像して悪寒が走るギル。想像の中で鍋をかき混ぜているのは、イヴァン。 「もちろん。嫌だなあ、君じゃあるまいし。僕の発言に裏はないよ」 くすくす笑いながらの返事に、十分含みがある気がする。ギルはケセセと笑って、帰宅準備を始めた。 「俺は、煮込み過ぎない方がいい。具にシチューの味が絡んでこそ、美味いんだよ。特にジャガイモは大事だぜ。 ジャガイモが煮崩れるのは、許せねえ主義なんだよな」 挑発的に言いきると、イヴァンは首をかしげてギルを見返した。 「……ボルシチの話だよね?」 「おう。食い物の好みが合わないくらい、よくある話だろ?」 「そうだね。でも……」 手早く荷物をまとめて背を向けたギルに、イヴァンは最後の一言を放った。 「君も、すぐに食べ慣れると思うよ」 振り返らずに耐えた自分を少しだけ誉め、ギルはただ「次は来週だったよな」と答える。 「それなら、来週は君を招待しようか。ライナ姉さんのボルシチ、一度味わってほしいな」 「まあ、気が向いたら」 目の合う位置にライナがいなかったのが、幸いだった。彼女に誘われたら、とても断れないところだったから。 別に、ライナ本人には興味ない。普通に女っぽい性格なので、ギルの方も礼儀上、女性として扱わなければならない気がして面倒なだけだ。ましてうっかり泣かせでもしたら、「姉さんに何かした?」と、コルコルが湧いて出るのが目に浮かぶ。ギルにとっては、係わりたくない相手の三指に入るというわけだ。 「つれないね。僕は君と仲良くしたいだけなのに」 そういうと、イヴァンはふっと立ち去ってしまう。あまりにあっけなくて、残された面々が「また戻ってくるんじゃないか」と妙に不安になるほどだった。 ふう。と、誰ともなくため息をつく。額の汗を拭ったギルは、後頭部にいきなり衝撃をうけた。 「痛って〜〜」 「喧嘩を売るなら、ひとりの時にしてくれる? いつイヴァンが切れるかと気が気じゃないのよこっちは! あとで彼に振り回されるのは、あんたじゃなくて他の人なんだから。周りの迷惑も、考えなさいっ」 ギルの背後に立ったエリザが、拳を握りしめて彼を睨んでいる。 「そーだそーだ」 机の下から顔だけ出して野次るリーアに、とりあえず辞書を投げつけて黙らせた。「フン」と鼻を鳴らしたギルに向かって、こんどは別方向からインク瓶が飛んできた。 何とか受け止めて、ギルは顔を投擲者に向ける。 「なにするんだよナターシャ。蓋が外れたら俺様大惨事だったぜ」 ナターシャは無表情のままぽんと手を打ち、「次はそうする」と呟く。この三兄妹はどうも苦手だ、とギルは再認識してしまった。 「兄さんが仲良くしたいって言うなんて。兄さんに食事に誘われるなんて。家族でもないのに妹でもないのにましてそれを断るなんて……」 相変わらず無表情のまま、ほうきの柄でギルの背中をごりごりつつくナターシャ。 「俺様を恨むのは筋違いだろうよ。 てか、誰か助けてくれてもいいんじゃねぇ?」 ごりごりされるまま、ギルが周囲に呼び掛けてみるが……。 「自業自得だし。な、トーリス」 「ナターシャさんの言い分は筋が通ってます」
フェリクスが友人と肩を組み、ギルを指差して笑っている。トーリスは逆ににこりともせず、ギルに厳しい視線を向けている。 「そうですよぉ! イヴァンさんにあんなこと言うから悪いんです! 僕今夜、ボルシチの具にされる夢を見るんだぁ」 叫ぶなり号泣するライヴィス。どうやらギルと同じ悪夢を垣間見てしまったらしい。 慰めるエドァルドに「君はいいよ。個性的なビーツみたいに、最後まで残るんだ。僕はきっと、一番に煮崩れて食べられるお豆さんなんだ〜〜」 泣きながらも言いえて妙な表現が、哀れさを誘う。
たとえ子供でも、野郎の涙なんかに心動かないギルだが。その場にいる全員から睨まれると居心地が悪い。 「もしかしたら、俺もちょっと悪い?」 「あんたのせいだって、言ってるでしょ!」 エリザのストレートパンチを受けてギルがひっくり返ったところで、その場はなし崩しになった。
「すまねえ」 皆が帰った後、部屋にはギルとエリザだけが残っている。少し腫れたギルの頬を冷やせるよう、エリザがハンカチを濡らして持ってきたところだ。 「何に対する謝罪かしら」 「キレたふりして、止めてくれただろ」 エリザのハンカチに、切れた唇の血がつかないよう用心しながらそっと顔に当てる。わざわざ外の泉で濡らしてきたハンカチは、心地よく冷たい。 「淑女の仮面と引き換えに助けたんですからね。もっと感謝しなさい」 「どこに淑女がいるんだ。そう言い張りたいなら手加減しろ、マジ痛かったぞ」 まあ、おかげで皆の追及受けずに済んだけど。と、ギルは呟いた。 「わかってるなら、いいわ」 馬鹿よねえあんた。と、エリザはくすくす笑う。壁にもたれてうずくまるギルの隣に座り、「馬鹿」と再び呟いた。 「二度も言うな」 「だって。あんなに無理して矢面に立つのは、馬鹿のやる事よ。あんたって、変わらないわ昔から」 「お前は芝居がうまくなった。アレ、本気でキレたように見えたからな」 「それ、もしかしたら誉めてる? まあ珍しい」 隣り合わせてふたり、ひそやかに笑う。一を聞いて十を知る、昔馴染みならではの空気を共有しながら。 「今のところ、誰もあんたの気配りに気付いて無いと思う。それに、イヴァンは一筋縄じゃいかない」 「……」 「もう少し頭使ったら? 私のフォローを期待されても困るんだし」 うん。と頷くギルは、彼女のよく知る少年時代の彼のままだった。思わず身を乗り出し、伏せ気味の顔を覗き込むエリザ。 「あんたが変ってなくて、ほっとするわ。幸せな昔が夢じゃないって、信じられる」 顔をあげてギルが、エリザと視線を合わせる。厳しい表情は大人の男なのに、目だけが子供のように、苛立ちともおびえともつかない不安定な感情を垣間見せている。 「お互い、家族のところに帰らなきゃ。だから、頑張ろう」 ハンカチを押さえたギルの手に一瞬だけ触れて、エリザは立ち上がる。 「じゃ、また来週ね。サボっちゃ駄目よ」 「しねーよそんなこと。俺様がイヴァンに負けたみてぇじゃねえか」 それもそうね。と、高らかに笑うと、エリザも彼に背を向けて立ち去った。
ひとり残されたギルは、暗くなった部屋でぼんやり座り込んでいる。 (あいつ、中途半端に女になっちまいやがって。男心なんて、全然理解しやがらねえ) 剛毅で思い切りが良くて、頭の回転も速い。そのくせ周囲への目配りも忘れない。そんな所は変らないのに。 「昔のように肩を貸してくれ」と言えば、彼女は苦笑しながらも断らなかったかもしれない。かつて、負傷したギルをかばってくれたときのように、そばにいてくれたかもしれない。 でも、それはできない。 「男心を理解しない」が「理解されたらまずい」に変わったのはいつごろだったか。彼と同じモノだと信じていた幼馴染は、ある時期を境に急速に「女」に育ってしまった。 気がついた時には、エリザはひとりの男を見つめ続けるようになっていて。もしかしたら、奴との出会いが彼女の変るきっかけになったのかもしれないと気がついた時、ギルの気持ちは行き場をなくした。 (エリザの言うとおりかもな。俺は、馬鹿だ) いつ、どこに分岐点があったのか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。
誰もいない、誰も来ない建物に、暗闇が忍び寄る。ギルは自分の膝を抱え、動く事もできなかった。
終
* というわけで、完璧に不憫なギル兄ちゃんの話になってしまいました。 ええと、初めはギャグのつもりだったんですよ。信じられます? ボルシチネタでドタバタする小話。 ギルが皆からどつかれて終わり、みたいな。「ギル=いじられキャラ」な話の予定でした。 ……なんでこんなことになったんでしょう。 ギルとイヴァン、ギルとエリザの関係を真面目に考えたら、こんなことに。 舞台設定を40年代後半にしたのも、一因ですね。 後々それなりに仲良くなる予定の『壁の向こうの人たち』ですが、ここではまだ、様子の探りあい状態です。
本気のイヴァンに挑戦しました。台詞は尋常なのに、雰囲気は……という感じを出したくて頑張りました。 怖い人なのに、姉妹が絡むととたんに駄目っぽくなる彼が、とても可愛くて好きです。 ナターシャさん初書きです。台詞考えるのが楽しかった。しかもインパクト強い。
あと、リーア(=ブルガリア)が初登場。ウチの勃牙利さんはこんな人です。
嫌味がデフォルトだけど、怒りの沸点は高め。そして懲りない。
人名だとわからない、という方もいらっしゃいますよね。気が回らなかったです。
次の目標。トーリスとエドァルドに台詞を!! いつも三人セットでごめん!
(2/20)この話は「あなたのことを知りたいの」に続きます。イヴァン宅でボルシチ。
Write:2010/01/25(MON)
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