今年の夏は暑かった。
地球規模の猛暑は相手を選ばなかった。なんと「ユーラシアの冷蔵庫」と誰もに思われているロシアまでが、連日30℃を超える気温を更新続ける事態なのだから。
異常気象の被害をダイレクトに被るのは、まず一次産業。特に農業だ。
どこの国も自宅の食糧事情悪化に困惑しているところに、思わぬ人物から泣きが入った。
「ごめんね〜。今年は小麦、売れないかも〜」
世界に向かっていきなりこう宣言したのは、ウクライナだった。国の人たちにとっては「イヴァンの姉ちゃん」としての方が印象深い。
「お約束してた分は何とか確保するけど。うちで食べる分がなくなっちゃうと困るの〜」
ライナがいう「家」というのが、自国だけではなく弟妹の分を含んでいるのは公然の事実。
本人も隠す気はないらしく、「だって私、お姉ちゃんだから」と口にする始末。
ロシアがこの夏大変な事になったのは皆知っているし、ライナの性格を考えればこの発言も「無理はない」と思えるのだが……。
事は国際レベルの大問題なのだ。あの一家だけが「兄妹は、助けあって幸せになりました。めでたしめでたし」では困る。
そんなわけで。欧州諸国が総出で「ちょっと待った!」と訴えるために、ウクライナで集合する騒ぎになってしまった。
ナターシャは、不毛な会議の間中ずっと兄の背後から他国に睨みをきかせていた。
口を開いても「兄さんの利益を損なう奴は私が許さない」としか言わない彼女に、意見を求める無謀な国は存在しない。それをいい事にナターシャは、会議の間中沈黙を貫いた。
ライナは各国の意見を、「お互い困るよね」「うん、判るよ」と笑顔で右に左にさばいている。話を聞いているようで、実はさっきからほとんど譲歩していない。
(姉さんは泣き虫だけど、腰ぬけじゃない)
すぐにも折れそうに見せかけ、くねくねと各国の要求をすり抜けるだろうとナターシャは思っている。
会議が終わっても、集まった国たちはライナをとり囲んだままだ。さすがに今回は事態が深刻と見え、いつになくライナが必死になっているのが判る。
手助けに行こうかと、ちらっと考えたが。「ベラルーシはロシアの味方」と各国が認識している以上、何のフォローにもならないだろう。
(……兄さんは、どこ?)
ナターシャの思考は、結局そこに行きつく。兄の姿を求めて視線をさまよわせるが、イヴァンはいつの間にかどこかに消えていた。
(可哀そうな兄さん。ひっそり姿を隠さなければならないなんて。それもこれも……)
兄さんをいじめる奴らが、悪いのだ。そうに決まっている。と心中で断言し、兄を守る決意はますます固くなる。
ナターシャは、愛する兄の姿を求めて歩き出した。
人目を避け、うつむいて歩いていたナターシャの前に、誰かが立ちふさがった。
目を上げると、スーツを着た筋肉が彼女を見おろしている。オールバックに整えた金髪と、額に刻まれた縦ジワ。
個別認識可能な、数少ない顔見知りの男だった。
「どけ。お前に用はない」
そっけなく言い捨てると、男……ルートヴィヒは苦笑を浮かべる。ナターシャは昔から、彼のことを障害物扱いしてはばからない。
「用はこっちにある。少し、いいか」
瞬きすることで返事にかえると、ルートは表情を緩めた。無視するとでも思っていたのだろうか。
「では、喫茶室にでも……」
言いかけたルートをさえぎり、「ここで良い。どうせだれも来ない」と返答する。ためらう風情を見せるルートに、ナターシャは軽い苛立ちを覚えた。
「お前の話なら、会議関連の何かに決まっている。口説いてるなんて誰も思わないから安心しろ」
そう言って壁にもたれると、あきらめたのかルートがその場で話を始める。
ルートの声を聞き流しつつ、ナターシャはつい先日兄の家に侵入してきたお調子者の事を思い出した。
イヴァンの留守を狙って、掃除に来たとか主張していた。「本当にそれだけだって!」と言い張れば言い張る程、ナターシャの怒りが増すという事にギルは気付けなかったらしい。
(ただの掃除って。それってつまり
『押し掛け女房』?!)
思いだしただけで、怒りで視界が真っ赤に染まる。
(迂闊だった。まさか
奴が兄さんを狙っていたとは)
ナターシャが脳内の抹殺リストにギルの名を加えようとした、その時。
あのとき一緒にいた姉の顔が、ぽっかりと浮かんだ。
「ギルなら、お兄ちゃんって呼んでも良いな」
頬を染め、笑顔で告げるライナの姿は、妹の目にもほほえましく映った。ナターシャの精神世界は、九割を兄が占めている。だが、残り一割に押し込まれたその他の存在に愛情がないわけではない。
(……)
あの時も思ったが。姉さんが幸せになれるなら、本気でアイツを獲得してもいい。
幸い、奴の生家は空き家同然。荒れてしまったあの家の管理を押しつければ、兄の心労が減る上にアイツの魔の手を防げる。
そして、姉さんがアイツとくっついてしまえば……。
(姉さんは自分専用の兄さんを獲得して幸せになる。
私の兄さんは、永久に私が独占できる)
完璧だ。ナターシャは自分の案に満足して、われ知らず微笑みを浮かべていた。
「兄の独占が幸せの第一歩」という彼女の常識が世間に通用しないことなど、ナターシャの知ったことではないのだった。
人の話を聞いているのか。と不安になる程無表情だったナターシャが、突然微笑んだ。
元々整った顔立ちの娘が笑みを浮かべると、誰もがはっとするほど美しい……のだが。
ルートはなぜか悪寒が走り、思わず後ずさってしまった。
「な、何だ? 今の話に合意してくれるのか?」
「何の話だ。まったく聞いてなかった」
ウクライナからの小麦を二次輸入できないかという彼の訴えは、耳にも心にも届いていなかったらしい。(まあ、そんな事だろうと思った)と、ルートはため息をつく。
すると、ナターシャが視線を上げて彼の顔を見つめた。常日頃、眼つけされる事はあってもこのように見つめられた事はない。
美女の視線でた易く舞い上がるフェリシアーノと違い、ルートはこれを「非常事態」だと直感する。緊張しつつ見守るナターシャの唇が、軽く開いた。
何を言い出すかと身構えていたルートだったが、耳に飛び込んできたのは全く予想外の一言だった。
「つまり、お前は私の弟になるわけだ」
「……は?」
ふん。と鼻で笑い、ナターシャはその場を立ち去った。
残されたルートは頭を抱え、その場に座り込んでしまう。頭の中で「弟」という言葉が繰り返される。
(俺がナターシャの、弟?)
ごく常識人の彼にとって、突然女性から「あなたは今日から私の弟」と言われそうな状況は、一つしか考えられなかった。
(兄さん、いつの間にナターシャとそんな仲に。いや、ライナの方かもしれないぞ)
戦後しばらく、あの姉妹の近くで暮らしていたのだ。その可能性も大いにあるだろうが……。
(それならそうと言ってくれ! 水臭いぞ兄さん!)
膝を抱えて座り込んだルートは、必死で精神バランスを取ろうとあがいている。
(いや、まだ決まったわけじゃない。そうだ本人に確認をとらないと)
思い悩むルートの耳に、どいーんばいーんという擬音が飛び込んできた。廊下を小走りに進む足音と共に、ひょいと顔をのぞかせたのはライナだった。
「! ルートヴィヒ君どうしたの? 立ちくらみ? 大丈夫?」
呼びかけながら自分も腰を落とし、ルートの背中を撫でながら語りかけてくる。
「大丈夫、だ」
「誰か呼ぼうか?」
「いや、いい。ちょっと目まいがしただけだから」
心配かけまいと、立ち上がって見せるルート。ナターシャと同じ色の瞳に見つめられ、つい視線をそらしてしまう。
「ライナは、なぜここに?」
問うと、ライナは小さく舌を出して笑う。
「あ。私今逃亡中なの。だから、ここで会った事は誰にも言わないでね〜」
会議後も引きとめられ、別室で会談を持ちかけられ、さすがにくたびれたらしい。
お願いね。と言い残して去ろうとするライナを、ルートは思わずひきとめてしまう。
引きとめた以上は何か言わなければならない。だが、彼は自分が思っている以上に動揺していた。
何を聞けばいいのか判らないままに、口から滑りだした言葉は……。
「俺は、あなたを姉と呼ぶべきだろうか」という問いかけだった。
ライナは目を大きく見開き、嬉しそうに微笑む。
「呼んでくれるの? 嬉しいな、もちろん大歓迎よ」
お姉ちゃんと呼ばれるのが大好きなライナの返事が、ルートを何かのどん底に突き落としてしまった。
ある意味この件の当事者である、ギルベルト。
会議から帰って以来、鬱々と思い悩む弟からこの話を聞き出せたのは、しばらく経ってからのこと。
ギルが「弟に何を吹き込みやがった!」と猛抗議に押し掛けたのは、また別の話となる。
終
*
おそうじプーさん露西亜編の、続きです。
本編より長いおまけになりました。
ナターシャさん、すごい存在感です。歪み無さがハンパねぇです。
ルートが完全脇役の話は初めてだ。
書きたかったのは「ナターシャに恋のライバル視されるギル」と、「弟認定されるルート」。
当初の予想よりひどい話になりました。なんてカオス(笑
駄目駄目なタイミングでライナが現れたのは……。
誰かさんの、日ごろの行いが悪すぎるんだ、そうに違いない(断言